特撮与太話箱

特撮(東映、円谷)に関する与太話をするブログです。

なぜジェットマンの結城凱は最終回で死ななければならなかったのか?

この5日間、友人に勧められてジェットマンを浴びるように見ていた。

1日10話ペースで見ていたが、話の緩急が面白く、最後まで飽きることなく見ることができた。単純な勧善懲悪に留まらず、メロドラマに片足を突っ込みながらもどこか熱い、不思議で面白い作品だった。

 

しかし最終話を視聴し、結城凱の最期を見届けた私は思った。

「なぜ、彼は死ななければならなかったのだろう?」

彼はまあ、品行方正ではないし喧嘩っ早いしイカサマもする。だが、それが死に値するほどの罪悪とも思えない。それに戦いの最中犠牲となって死ぬのではなく、「逆上したひったくり犯に刺されて死ぬ」というのも気にかかった。

 

そういうわけで、この記事では「結城凱がなぜ死ななければならなかったのか」について、物語的な側面から考察してみることにした。長くなるが、お付き合いいただけると幸いである。

 

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結論から言えば、私の考える結城凱の死ななければならない理由とは「天堂竜に惚れて、自分を変えてしまったから」なのだが、それだけではどういうことかよくわからないと思うので、順を追って説明する。

 

①結城凱なる人間について

 まず、結城凱とはどんな人間か。ハンサムでスタイルが良くて、女好きでビリヤードが上手で、イカサマ師で、サックスも吹けて、音楽への造詣も深い。気取った台詞も平気で言う。その割に喧嘩っ早いし短気だが、そこも含めてなぜだか様になる。強くてズルい伊達男、というのが一般的な認識かと思われる。

 しかし私はそうした一般のイメージとは裏腹に、結城凱は「自分のアイデンティティを見失っている弱い男」「アイデンティティを見失っているが故に、自分が自分であることにこだわり続ける男」なのではないかと考えている。

 

 ジェットマン1~2話で凱はわりかしムカつく野郎というか、竜が誘っても「ケツが痒くなる」と言ってかわそうとしたり、「人類なんていっそのこと滅んじまったほうがいいんじゃないか」なんて嘯いてみせる人間として描かれている。

 ここでは地球の滅亡を目の前にちらつかされているにも関わらず、変化を拒む姿を見せることで、ブラックコンドルの適性者である結城凱は「自分は自分であろうとすること」に死ぬほどこだわっている男だ、ということが示唆されているわけだ。

 要するに、結城凱は「天堂竜に憧れヒーローであろうとする男」である以前に、「自分が自分であることに命をかけている男」なのである。

 だから「惚れた女を守るという自分を守る」ために香のことを命がけで守るし、みんなからいつも一歩離れた場所に立っているし、香が凱にマナーを教えようとすると「飼い慣らされるのはごめんだ」と怒ったり、香の両親に出自を聞かれて「人をレッテルでしか判断しない」と激昂したりする。

 仮に彼が自分自身の出自やアイデンティティに対し何かしらの自信や確証があれば、香とその両親に怒ったり、仲間と距離を取ったりする必要もないはずだ。凱が時折見せるそうした「自分が自分でありたい」という言動は、脆弱な自己に対する防衛でもあるのである。

 

 そしてその精神性は、香に対する「俺を見てくれ、香!」という台詞に集約される。その台詞を言う彼の顔は苦痛に満ちており、声色も張り裂けるような悲しみに染まっている。それらは一見すると惚れた女に相手にされないという苦しみから生じたもののように思えるが、その実この台詞は凱の「自分自身の存在意義をかけた叫び」でもあるが故に、単に女に追い縋る男の台詞とするには複雑な色彩を放っているのだ。

 ここは少し言語化するのが難しいのだが、この時点での凱は香の目に自分が映ることで、自分が今ここに生きていることを認識するというか、そうしたことを求めていたのではないのだろうか。彼は本当の意味で鹿鳴館香という女を欲していたわけではなく、「自分を認めて愛してくれるいい女がいる」ことで自らの存在意義を確かなものにしたかったのではないか。彼が女の子をとっかえひっかえしていたりすることや、11話の自販機ジゲンに引き出された隠された性格(真面目でさみしがりないい子)も、間接的にそれを裏付けている。

 

 だから、凱と香は破局する。これは結城凱の背負わされた命題と、香の置かれた社会的状況を鑑みれば当然の帰結だ。

 財閥のお嬢様である香と生きていこうと思うなら、自分を変えなければ隣には立てない。けれども結城凱は「自分が自分であることであること」に命を懸けているから、自分を変えることは「結城凱」という男の死を意味する。

 それゆえ、凱と香は一人の人間としては愛し合えても、その先のステップのことを考えると破局するしかないのだ。香が鹿鳴館財閥のお嬢様であるという地位を捨てて、結城凱という一人の男についていくというのなら、また違った結末が待っていたのかもしれないが、香は社会性を捨てられないからこの「もしも」は成り立たない。

 結城凱と鹿鳴館香の関係は、結城凱の背負う「自分が自分であること」という命題を際立たせ、彼が何を背負っているかを見せるためにあり、その役目が終われば破棄されてしまうものなのだ。

 

 

②天堂竜への感情

 愛した女を振ってまで、「自分が自分であること」にこだわりつづける結城凱。

 しかし、物語が進行するに伴って彼もまた変化する。

 最初の頃は仲間と衝突し合い、うまく連携も取れなかったにも関わらず、大きな転換点である32話を迎えてからは「ヒーローらしく」変わっていく。描写の面でも、リーダー不在の仲間を率いて戦ったり、信頼の言葉を口に出すなど、32話以降は「結城凱はヒーローである」というのがしっかり描写されるようになっていくのだ。

 ではなぜ、結城凱は単なる人間から「ヒーロー」へと変わったのか?

 それはもう、「竜に惚れているから」以外の何物でもないと私は思う。

 字面だけ見るとトンデモ理論のように見えてしまうので詳しく説明するが、結城凱はそもそも「完全無欠の天堂竜に憧れている男」なのである。これは別段、凱が竜のようになりたいという話ではないし、眩しく感じていると言った方が正確かもしれない。

 天堂竜という太陽のような男の輝きは、日陰者の結城凱の目には強すぎるのだ。しかし強い光というのはそれだけで人の心を引きつけ、近づく者を焦がして苛んでいく。だからこそ冒頭(1~2話)で凱は竜の誘いを断るものの、「なぜあいつのことが気になって仕方ないんだ」と悩むことになる。変わることは嫌だと思うのに、その光が放つ輝きに抗えない。それこそが「凱が竜に惚れこんでしまった(=憧れるようになった)」ことの証明となっている。

 後々の描写でもそれは顕著であり、凱は竜に惚れているからこそ、完全無欠の竜を見ていると自己が確立されていないコンプレックスが刺激されて反発し、竜が腑抜けになったら「そんなお前なんか見たかねえ!」と叫んでぶん殴って抱きしめ、認め合ってからは勝利の証として杯を交わすのである。

 

 だが、憧れているだけで変わるほど凱は素直な人間ではない。彼が変わった真の鍵は、転換点であるジェットマン32話「翼よ!再び」にある。

 この回で竜は初めて戦意をなくし、かつての恋人リエとの幻想の世界に引きこもってしまう。理想的なヒーローだった竜が見せる初の人間らしい姿であり、凱にとっては非常にショッキングな光景として映る。

 今まで凱は、竜の人間らしい部分を知らなかった。正確には、嫌いながらも惹かれてやまない「竜の正しさ」というものが、恋人を失った復讐心という「人間らしさ」に裏打ちされたものであることを知らなかったのだ。(それ故に、凱は竜に対して反発したり、ひねくれた感情をストレートにぶつけたりしていた。)

 しかし、それを知ってしまった凱は、これまで竜になんとなく憧れていた、惚れていたけれど素直にそれが表に出せない状態から、本当の意味で竜のことを愛するようになってしまう。

 これは変化を嫌う凱自身が望んだことであり、自ら選び取った変化だ。「完全無欠のヒーロー」であった天堂竜の抱える脆さを知って、彼が人間であることを知り、元から人が人たる所以(人間らしさ)を愛してやまない結城凱は、天堂竜を本当の意味で心の底から愛するようになる。いうなれば、ここでもう全ての運命が決してしまったのだ。

 では、人が人を愛するとどうなるか?

 変わるのだ。相手の望む姿に、相手に近い姿に。

 だから結城凱はヒーローになる。「ヒーローである天堂竜」にひとかけらの人間性を見たからこそ、二人の間に繋がっていなかった回路がようやく繋がり、凱はヒーローへと生まれ変わっていく。
 しかし、それは同時に「自分が自分であること」に命をかけていた結城凱という男のアイデンティティの消失を意味する。結城凱は変わることは死に等しいという業を背負わされた男なのに、天堂竜に惚れたことによって自分を変えられてしまったのだ。

 

 

③改めて、「なぜ結城凱は死ななければならなかったのか」を考える

 ①、②で述べたように、結城凱は「命をかけて『自分が自分であること』を守る男」であり、「天堂竜に出会って自分を変えられてしまった男」なのだ。どちらか片方だけならば問題ないが、その二つが重なったのであれば、それは結城凱というキャラクターのアイデンティティの消失(=物語の登場人物としての死)を意味する。

 相反する二つの命題は、同時には持てない。故に、結城凱は死ななければならない。

 もちろん本当に死ぬ必要はない(物語における「キャラクターの死」には、退場も含まれる)が、脚本を担当した井上氏はあれが一番凱にふさわしく、美しい幕引きだとお考えになったのだろう。その点に関しては私も異論はないし、この世で最も美しい最期の一つだと思っている。物語の構成的な意味でも、画面の構成の意味でも。

 

 また、凱は腹を刺されて苦しいだろうに満足そうに笑っていたが、どうしてそこまで満足気な顔をしていたのかと言われれば、私はあれが「愛した天堂竜との一体化と、己の死の限りなく深い接合点」だったからではないかと思う。

 天堂竜なら、きっと泥棒を追いかける。そして彼は仲間にもそうであってほしいと望む。しかし結城凱という男にとってそうする(=ヒーローに変わる)ことは死を意味する。だが凱は、竜への愛情故に、自分が死ぬことよりも惚れた男の理想に変えられることを選ぶ。だから腹を貫かれて苦しくとも、満足気に笑っていられたではなかろうか。

 

 長くなってしまったが、私が思う結城凱の死の意味についての考えはこれで終わりである。ここまでお付き合いいただいた方に感謝の意を捧げ、これを以て結びに代えさせていただきたい。

 

おわり